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2013年1月15日 (火)

楽園への道 マリオ・バルガス=リョサ [読書記]

フローラ・トリスタン。不幸な結婚生活の体験が、全女性の隷属状態からの解放を志し、弱者の団結の観点から、労働組合の必要性を説くに至った女性運動家。もし彼女が男であったなら、マルクスの代わりに歴史に長くその名を留めたであろうに。
本書では、1844年4月12日に始まるフランス南部での労働組合設立のための講演旅行を追いながら、ペルー、パリ、ロンドンでの回想を交えつつ、19世紀の女闘志の半生が描かれる。

・搾取され続ける労働者のため、精力的に権力と闘う彼女。特筆すべきは、闘いが非暴力によるものであり、労働者に革命ではなく連帯を訴える点だ。
だが自助を惜しむ者には「搾取と貧困が人を愚かにする」「疲れの余り知性の欠片もないような顔つきをした男たち」(p94)「偏狭な信仰心が強く、無知であらゆる知的好奇心に欠け、利他精神の欠片もなければ社会的自発性もない」(p134)と容赦がない。

・随所に、教会が強者と結託して民衆を苦しめている様子が、非難を込めて描写される。
「カトリックではない組織で、それほどの重要性をもつ組織の結成は、社会にとっての大変革を意味する」(p58)「修道会の一番儲かる商売は、死にかけている人に法衣を売ること」(p229)

・「施しというものは、自分が道徳心の高い篤志家であると信じ込むためにしているにすぎません」(p56)

・社会主義に傾倒するブルジョワ、特権階級の崇拝者、ブルジョワを批判しつつブルジョワのままの人、上からの改革を信じ、高みから労働者を見下す人々、等々、サン=シモン主義者への非難はすさまじい。(p50)

・フリーメイソン主催のある講演会で、聴衆の半数以上が雇用主であると判明したとき、彼女は労働者に対する無償の資金提供を呼びかける。反論する彼らとのやりとりが実に面白い。(p87)

・非正規雇用の問題が19世紀中葉から存在するとは(p91)。非雇用者もプライドからか、自分はプロレタリアートに非ず、と信じており、問題解決には遠い。

・暴力的な性生活を強要する夫からの逃亡。父の故郷である新興国家、ペルーで出会った"女元帥"こと、ガマラ大統領夫人に触発される。女も自立できるのだ、と当時としては革新的な思想を抱くきっかけともなった。
「くしゃくしゃの髪に燃えるような目をした女性の威厳に満ちた挑戦的な眼差し」(p313)

・ペルーへの旅は、彼女を変えた。ポルトガル植民地 Cape Verde カーボ・ヴェルデ諸島(人身売買が唯一の産業!)で奴隷制度の惨さを目撃する。「この世の不正義中の最悪の不正義」(p174)を前に、カトリック布教者が黒人売買組織の元締めとなり、商売を邪魔するピューリタンを罵る様子に、めまいを感じたろう。
リマの農園では、サトウキビ畑に縛られた1500人もの奴隷を見る。本国で禁止され、植民地で続いている文明に対する犯罪。(p316)
自分の小さな悲運は、より大きな悲惨に代替された。選民的な理想主義者に「世界の他の人々に背を向けて自分たちだけエデンの園に逃避するなんて利己的」(p176)と言い放ち、フーリエ主義やサン=シモン主義を言い負かす強さは、この旅から生まれた。
「今までとはちがう自分になろう、精神の泉を満たし、知性に磨きをかけ、ありとあらゆる行動を起こそう」(p345)
ヨーロッパ人だけでなく「全人類の救済」を高く目指したのは、彼女が最初ではないだろうか。

・1839年夏のロンドン調査旅行の折り、最盛期にあったチャーチスト運動と邂逅することで、女性解放の唯一の手段が、労働者との連帯であることを知る(p399)。アイルランド独立運動の指導者、オコンネルを「品位と理想主義がきらきら」させる話し方、と彼女は賞賛している。

・「オックスフォード通りのガス灯が歩道を一晩中、明るく照らし出す代償」(p410)は何か? 監獄よりも過酷な下層工場労働者の住居はどのようなものか? あまりにも辛い現実に、フローラは打ちのめされそうになる。

・フランス同様、女性に一個人としての権利が与えられないイギリスでは、男装して国会議事堂や夜の歓楽街を勇敢に歩く。
ウエストエンドの高級歓楽街で毎夜行われる遊戯。この、いかがわしい、否、卑猥という言葉すらかわいらしく思えてくる行為がフローラによって白日の下に暴かれる。パリの読者は口をつぐむが、この体験こそ彼女に「この涙の谷の悪に終止符を打つ」決意を新たにさせたのだ。(p407)

そして彼女は「人類を変革するため」の行動を開始する。(p440,459)


さて、本書のもうひとりの主役がポール・ゴーギャンだ。「野蛮人になること」を夢に、ブルジョア生活を捨て、家族を捨て、「人前では口にするのが憚られる病気」に悩まされながらも独りで未開の新世界=芸術の新境地に足を踏み入れた男。

ヨーロッパで忌避された存在、第三の性を有する「男-女のマフー」に原罪、否、西洋芸術の超越を見いだす。その木樵の少年、ジョテファとの"行為"に及ぶ描写(p71)には目を背けたくなるが、異教文明ならではの自然を望むポールにとっては、悦楽の高揚に満たされた様子だ。
このような"常軌を逸した"行為を公然と成す彼は、後世に数多あらわれるボヘミアンの先駆けなのか。そうではあるまい。たとえば、タヒチで中国人経営のアヘン窟に潜り込んだものの、活発な創作活動に取り憑かれている彼にとって、麻薬の幻覚的快楽はあまりに受け身なもの(p22)であったように、内発的なものにこそ生きる価値を見いだしていたのだから。真の芸術家たる所以。

・船員からブルジョアを目指して株式仲買人として辣腕を振るっていた過去を思いだし、ポールは笑う。規範の軛から解放された後の私生活は相当なものだったようだ。先住民の少女に対する「抑制を欠いた不道徳で堕落した行動」を司祭と牧師から非難されたとある。
後に原始を求めて移住したマルキーズ諸島、ヒヴァ・オア島で先住民の村で酋長と交渉し、モデル兼新妻として14歳の少女を買う行為は、なるほど、非難を免れないな。(p331)

・第八章では母親、アリーヌ・ゴーギャンへの複雑な思い、父親が政治的亡命の船上で死亡し、マゼラン海峡の近くに葬られたこと(パナマ運河は未完成か)、ポールが株式仲買人となるきっかけ等が綴られる。夢の中の再会、すすり泣く巨躯のポールの姿。祖母、父母、息子三代に降りかかる運命の残酷さよ。(p162)

・1890年のフレンチ・ポリネシアに「船員、商人、ごろつき、興奮しやすい若者」を含むヨーロッパ人に加え、300人以上の中国人苦力がいたのは驚きだ。「黄色人種の帝国主義」(p274)がフランスに代わって太平洋を支配する、等の主張は窮乏と薬物から半狂乱に陥ったゴーギャンの奇弁だとしても、植民地支配者であるフランス人には半ば同意できたに違いない。

・回想には「狂ったオランダ人」(笑)との論争も含まれる。二人の芸術にかける情熱は、差異を拡げ、フィンセントの左耳切り落とし事件へと発展するわけだが、「文明を拒絶し、想像力と生命を賭して内なる野蛮を引き出す」ことに熱を上げるポールの姿に、アルルの家の男も脅威を感じたに違いない。

・金が尽きると生きる気力も尽きる。山頂で服薬自殺が未遂に終わった後、ゴーギャンは自らの大作を命名する。「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行くのか」(p244) いまもって人々を魅了する、魂の底から沸き上がる漠然とした力、本能の激昂が描かせた命の作品だ。

・ユゴーのレ・ミゼラブルに触れる件。「悪に対して全を勝利に導いた手が神の蘇生した手であるならば、それならば愚かな人間の価値とは何だろうか」(p282) この問いが自画像に現れるのか。
芸術家の使命は自然界を「模倣するのではなく、想像すること」(p284)、「現実の世界とは異なる世界を創ること」(p473)であり、日本の版画家をベタ誉めしている。


・スエズ運河のポート・サイド、南米チリのバルパライソなど、世界中のあらゆる民族が集う港町の活気が描写される様が気に入った。(p146,p187)
・フローラの最晩年、ルモニエ夫妻の献身的な姿は感動的だ。(p448,460)
・随所に出てくる「楽園遊び」が、なるほど、本作のキーワードでもあるのか。


エコノミスト誌かニューズウィーク誌だったか、数ヶ月前、フィリップスが中国のラジオ組立工場を閉鎖するとの記事を読んだ。殺伐とした雰囲気の、昔ながらの姿で働く数百人の労働者の写真も印象的だ。まさに人海戦術。で、整理解雇されて途方に暮れるcoolie 苦力に代わるは、本国オランダの最新工場で24時間稼働し続ける先進的な無人操業ロボット群だ。米国のテスラ工場も同じだったと思う。
世界の工場、中国は終わりだな、ざまあみろ、と言えない事態が世界中で進行中だ。
無人化は世界の趨勢とはいえ、近代の熟練労働者から知的労働者を基盤とする、都市中間層の縮小が加速されることになる。
常に新しいシステムを構築しつづける上級技術者と資本提供者のグループと、与えられた環境でその日暮らしを強いられる下層労働者のグループに二分化されるのは確実だな。
あるいは、ゴーギャンのように芸術を極めんとする者、あるいは厳しい現実に背を向け、気ままにボヘミアン的な人生を選択する者も出てこよう。

2003年のペルー文学作品が、19世紀の過酷な労働者の世界が21世紀中葉にも現出しそうな予感を与えてくれるとは。そしてフローラ・トリスタンをはじめ、社会改良主義の先駆者の行動が、社会改善に向けて先手を打つべきことの指針を、成すべき行動を示唆してくれるとの、実のある読後感を得た。

EL PARAISO EN LA OTRA ESQUINA
楽園への道
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 Ⅰ-02所収
著者:Mario VARGAS LLOSA、田村さと子(訳)、河出書房新社・2008年1月発行
2013年1月5日読了

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