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2014年8月30日 (土)

ふらんす物語 永井荷風 [読書記]

長谷川如是閑が新聞記者としてロンドンを旅した同時期に、銀行員としてフランス・ルヨンに赴任したのが永井荷風だ。ときに1909年、日露戦争によって一等国の地位と自信を勝ち得た日本帝國の勢力拡大の時期に当たる。

『船と車』
入国後のパリはル・アーブル鉄道駅でふと、草色の清洒な壁の色彩に目を惹かれ、「自分も遂にヨーロッパ大陸に足を踏み入れたのだ」という感情を深くし(p9)、ブージヴァルからシャトゥ島付近よりエッフェル塔を遠景に認め、セーヌ沿いの別荘の窓より見返る女の姿に、仏蘭西小説の数多のヒロインを思い浮かべる(p11)。期待に胸の高まる若き荷風の姿が浮かび上がろうというもの。

『ローン河のほとり』
筋骨逞しい男性のごとく急流猛々しいローヌと、セーヌのような優しい流れのソーヌ。二つの対照的な川を抱く中世の古都リヨンの夏の夜。日没から21時頃までの「漠然たる夢うつつの世界」に「恋も歓楽も、現実の無惨なるに興冷めた吾らにはなんという楽園であろう」と酔い、アメリカに別れてきた女を思う。
「雲遠く水遙かに、思う事のかなわぬ哀れさ。これが我が恋の薫を消さぬ不朽の生命ではなかろうか」(p24)
すると鈍い黄色い光を灯す瓦斯灯に聞こえるは、いままさに別れ話を切り出されたであろう女のすすり泣く声。相手の心変わりに胸を痛めつつ、自身の心の弱さ頼りなさを嘆く荷風も、また泣く。

『蛇つかひ』
「浮浪、これが人生の真の声ではあるまいか」(p46)と感慨を深めつつ夏の夜に観たジプシーの道化芝居の一団、なかでも黒ビロードの衣裳に身を包む濃い化粧の女に惹かれる。いい女だ、との周囲の囁きにも同意したのであろう。
季節が変わり、偶然に観た女の日常の姿に悲しさを抱く様はどうだ。赤子を抱く母の姿に「一種の薄暗い湿った感情を覚えた」ならまだしも、「背を丸くして仕事をしている元気の失せた生活に疲れた馬鹿正直な頓馬な顔をした年老けた女房」(p56)って、ヒドイな。

『祭の夜がたり』
コート・ダジュール旅行の途上でアヴィニョンに立ち寄った友人は語る。
「馳する車の音につれ自分は近世なるものから如何にも遠く隔たった未知の時代へと送られて行くような気がした」わかるなぁ。
「経験は貴き事実だ。事実は未来を予想させる唯一の手引きだ」わかる。
南フランスの女の色香に惑わされ、予想外の5泊と女への支払いが、旅行代金を食いつぶす、この無念さ。わからないでもないが。

『霧の夜』
1907年最後の夜、何気なしに小雨降るリヨンの街路を彷徨う荷風は、白髪の老人が声を枯らし、川風に吹かれながら年若い少女が客を引く大通りの露天商を覧る。生きようともがき、飢えまいと焦る人の運命の悲惨さ(p101)に、あの霧の深い夜の出来事を、忘れない記憶を蘇らせる。
それはキャバレーで垣間見た場末の寄席芸人の悲痛な生活であり、テーブルを駆けずり回るギャルソンの姿であり、寒さと塵に耐える市電の運転手の姿である。
木靴を履き上着すら持てない最貧困層の女性の副業は何か? 必死に自分を売り、果ては14歳の子どもを斡旋する少女に荷風は問う。彼女は友人か。少女は語る。
いえ、私の妹よ。
その平気な語り口。荷風の受けた衝撃は計り知れない。

『雲』
週に何人もの売春婦を買い、華のパリで観劇に逍遥に歓楽の日々を送る外交官、貞吉。はなから職責など無く、ワシントン時代の恋人にしてこれも売春婦を彼の地に置き去り、転任したロンドンでご令嬢との甘い時間を楽しんだのも終了し、パリでふたたび女買いに走る。似非所帯を持つ遊戯も失望に変わり、熟成されたのは捨て身の人生観。
おそらくは荷風その人の私生活を元にしながら、外国人としての立場からパリの日本人の醜聞をこれでもかと垣間見せる。
「浅薄な観察で欧州社会の腐敗を罵り、その挙句には狭い道徳観から古い日本の武士道なぞを今更のごとくゆかし気に言い囃す」(p175)などは、まさに昨今かまびすしい"日本美化"に通底するであろう価値観。
アメリカに捨てた女がパナマで死ぬ間際、それでも貞吉は女優との遊戯に慰めを見出す。
自己嫌悪すら超越した暗雲の人生に決別する時に、人には何ができるのかを荷風は諭してくれる。何もできはしまいと。

『巴里のわかれ』には、パリ在留を終える寂しさと、ロンドン到着初日の失望感が筆致たっぷりに込められている。
最終日の夜に見知らぬ女性二人とモンマントルを馬車で散歩できたのが、せめてもの慰めか。
しかし、中学時代からフランスに憧れていたとはいえ、ロンドンのことをここまで悪しざまに書かなくても良いのに。

フランスを離れた衝撃から立ち直ったのか、ポートサイードの記述は実に興味深いものとなっている。
「天と砂と光との間に自分は今無際限の寂寞沈黙に對して自分たった一人佇立してゐるのだとういふ感覚」(p232)が強烈に身に迫ったという体験は、パリでは得られないものだろう。個人的にはお気に入りの小編となった。
(タイトルは『ポートセット』だが。)

ふらんす物語
[荷風小説二]所収
著者:永井荷風、岩波書店・1986年6月発行
2014年8月30日読了

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